紅茶大国スリランカと日本の特別な関係

1951年日本の運命を決めた『サンフランシスコ講和会議』

敗戦国日本の復興針路を定めたサンフランシスコ講和会議(1951年)から60年後の年に、東日本大震災がありました。
私は全ての日本人に60年を隔てた両国間の「大切な真実」を知って戴きたいと思っています。
その前に次の2つの史実をご存じですか?

①駐リトアニア杉原元大使が1500人のユダヤ人の命を救った職務違反的ビザ発給。
②トルコ人が日本人を尊敬し友情を持つ理由。「エルトゥールル号遭難事件」

スリランカといわれてピンとこなくても、「セイロン紅茶」なら、どなたでもご存知な筈。インド亜大陸の南東にある、北海道よりやや小さな島国で、日本と7,000㎞離れています。インドの約50分の1の国土で、インドの3分の1の量の紅茶を生産し、その殆んどを輸出して世界NO.1にランクされています。この小さな国と日本の間に、知る人ぞ知る歴史的関係があるのです。

1951年、サンフランシスコ講和会議。公式には1945年に終わった第2次世界大戦でしたが、その後、ソ連の台頭、中国の分割等があって混乱が続き、アジアの戦後秩序形成は、このサンフランシスコ講和会議が最大の機会と見なされていました。

当時、日本政府は戦勝国からの巨額賠償金請求や米・英・ソ・中に依る4分割統治プラン等に脅えていました。「青森から函館に渡るのにビザが必要になるかも知れない」。 ところが、会議の冒頭、演壇に立った(当時)セイロン代表J.R.ジャヤワルダナ氏の演説で、会議の雰囲気が一変し、敗戦国日本を穏便に扱い、平和で力強い「仲間」にしようということになったのです。

J.R.ジャヤワルダナ氏の演説
1951年9月4日 (サンフランシスコ講和会議)
調印式での吉田 茂 全権代表

9月8日、吉田茂主席代表は講和条約に署名し、翌1952年4月28日、国会で批准された結果、第二次世界大戦(太平洋戦争)は終了したのです。日本を救った「ジャヤワルダナ演説」の全文は英文・日本語訳共に読むことが出来ますが、次に抄訳を示します。

「私は東京を経由してサンフランシスコに来ました。東京で敗戦後の辛く苦しい民衆の生活を見ました。彼等は規則を守り、貧しいながらも毎日団結して希望に向って努力していました。彼等の性は善であることを理解するべきです。
我が国も大戦中、被害を受けなかった訳ではありませんが、私は日本に対して我が国が有する損害賠償請求権をここに放棄することを表明します。
仏陀が言われたように、憎しみに対して憎しみを返せば戦いは終らないものです。憎しみに対し、私達は愛と寛容を持つべきであります」。

殆んどの日本人はこんな演説の存在など知りません。なにしろ昭和26年のことです。TVもない、ラジオだって全家庭で聴けた訳ではありません。日本政府はアメリカに対応するのに精一杯で、当時の新聞にも目立った記事は掲載されなかったようです。 

つまり、日本人はその事実を知らずにひとつの演説によって助けられたのです(勿論、外交は複雑なので、その他のファクターも在ったことは、少し調べれば分かります)。J.R.ジャヤワルダナ氏とスリランカ国民に感謝の意を表します。

当時の駐日全権大使と弊社社長。
スリランカ共和国建国70周年記念式典にて。

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2014年9月、当時の安倍晋三首相はスリランカを訪問し、国会議事堂でJ.R.ジャヤワルダナ元首相とスリランカ国民に感謝の意を表す演説をしました。 

J.R.ジャヤワルダナ氏の演説全文(和訳)はこちら

J.R.ジャヤワルダナ氏の演説全文(英訳)はこちら

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